ども宇佐美です。

今回は国際興業の話です。非常に長いのですが、国際興業の社員の方々、また同社の関係者の方々にとっては非常に重要な情報が多々含まれていると思うので、ぜひご一読いただき、幅広くシェアいただければと思います。(これまでの記事も国際興業社内でかなり読まれているようですが。)

ご案内の通り現在国際興業は現会長の小佐野隆正(おさのたかまさ)と小佐野匠(おさのしょう)ら亡き前社長一族との間で激しいお家騒動が展開されています。そのような中、本ブログでは騒動の内容について、特に隆正の行状・不正に焦点を当てて解説してきましたが、今回は視点を変えて小佐野匠個人の人生から見た国際興業についてまとめたいと思います。 特に国際興業社内において、匠の存在を不気味に思っている方、匠を毛嫌いしている方に読んでいただければ幸いです。

以下本題に入り、小佐野匠の経歴、歴代社長との関係、国際興業に関する将来ビジョン、など幅広く述べていくこととします。(以下敬称略)


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1.小佐野匠の経歴(大学進学まで)


そんなわけでまずは大学進学までの匠の経歴を簡単になぞることから始めたい。


匠は1981年に当時国際興業の取締役で主要子会社複数の社長でもあった小佐野政邦の一人娘、千砂の長男として誕生する。政邦は匠誕生の翌1982年に、隆正の父親である社長の小佐野榮が死去したことに伴い、国際興業の社長に就任している。創業者で榮や政邦の兄にあたる賢治には子がおらず、政邦にも息子がいなかったので匠は小佐野一族の第三世代初の男子として国際興業の後継者となることが期待され、幼い頃から厳しい教育を受けることになる。幼稚園の頃から、体操、図画工作、ピアノといった習い事の毎日で叱られてばかりの毎日だったとのことだが、その甲斐あって小学校受験では名門中の名門、慶應義塾幼稚舎(小学校)に合格する。


慶應幼稚舎での同級生には今をときめく嵐の「櫻井翔」や近い将来の自民党からの出馬が噂される「中曽根康隆」などそうそうたる面子がいたとのことである。匠自身は小学校のころから地図と歴史年表が好きな変わった少年だったらしく、古今東西の地図や百科事典を読み解くのが趣味だったらしい。ただ学校の勉強はそれほどしていたわけではなく、小学校の高学年の時分には成績不振に運動神経の悪さも重なり、コンプレックスから自信を喪失し、また両親の離婚があったことなどもあり、精神的に不安定な状態に陥り辛い毎日であったらしい。


この悪い流れはそのまま進学した慶應義塾普通部(中学校)でも続き、中学時代は本人曰く「これまでの人生でもっともつまらない時期」だったとのことで、無気力で成績も同校で毎年学年下位数名が食らう「留年」は辛うじて回避できたという程度だった。以前「当時休日に何をしていたのか」と聞いたら「昼過ぎまで寝た後は秋葉原に繰り出したり、パソコンを自作したり、ガンダムを鑑賞したりしていた」とのことだったので、かなりのオタクだったようだ。この辺「お坊ちゃんで何の苦労もなく育ってきた慶應エリート」という外部が抱きがちな彼の印象とは異なる。なお私も似たような暗い青春時代だった。


こうした状態から環境を変えて心機一転するために高校は都心を離れて慶應義塾湘南藤沢高等部に進学することにしたようで、ここでは打って変わって気力・学力ともに充実した生活を送れたとのことだった。学力に関しては、通学時間が2時間近くかかるようになったために退廃的な夜型の生活から朝型に転換し、長い電車の中での勉強などが功を奏し劇的に成績が向上したとのことで、私生活でも社交的な友人に恵まれ垢抜けて合コンなどにも勤しむようになり、総じてこの時期に「自信」というものを取り戻したようだ。余談だが当時はよく麻雀をしていたらしく、結構腕に覚えがあるらしい。


大学はエスカレーター式に慶應義塾大学経済学部に進学し、そこでは最大のゴルフサークルに加入しその中心的なメンバー、3年生では主将として、毎晩飲み歩くいわゆる「楽しいキャンバスライフ」というものを送ったらしい。ただだからといって学業がおろそかになったわけではなく、成績は安定して良好な状態を保ち、公私ともに充実していた。



.匠と小佐野家の面々(政邦、賢治、隆正)


そして匠が大学1年生の終わりの20012月、匠の祖父であり養父でもあった国際興業社長の政邦が癌で亡くなる。


政邦は、匠曰く「自分の人生にとってもっとも大きな影響を与えた存在」とのことで、幼い頃から生活を共にし、背中を見てきた存在だった。当時の国際興業はグループで従業員2万人を抱える大世帯で、社会的な企業としての責任から、政邦は同社の代表取締役に加えて日本バス協会会長や帝国ホテルの会長も務めるまさに「大物」であった。政邦は毎週末側近を従えて取引先や銀行の幹部なども加えてゴルフに行くのが常で、後継者と目されていた匠はこれに参加することも多く、政邦について回る中で経営者としての考え方や人間への接し方を自然と吸収することも多かったようだ。


政邦の体調はもともと万全というわけではなく1999年に胃癌になり胃を全摘していたのだが、手術が成功したことで健康を取り戻したように見えていた。しかし2001年の年明けに体調を崩し病院で検査を受けたところ癌の再発が判明した。それからの政邦の体力の衰えは激しく、わずか一ヶ月後の2001214日深夜に意識を失い、ほぼ丸3日昏睡した後の218030分に72歳で亡くなった。この3日間で匠は政邦氏との思い出を振り返ると共に、心を整理し、彼の思いを継いで国際興業の社長になる将来の自分を意識したとのことだった。


なお小佐野家および国際興業における伝説的存在である小佐野賢治が亡くなったのは1986年のことで当時匠はまだ5歳だったが、賢治の大邸宅(匠の実家の目の前にあった)で遊んでもらっていたことからはっきり記憶に残っているとのことだった。賢治の葬式は彼にとって初めて「死」というものを実感した体験だったようで、仮通夜で接した納棺前の冷たくなった身体、1.3kmにも及んだ弔問の列、字はまだ読めなかったものの大きく写真が載った新聞での賢治の特集、葬儀で流れていた音楽などは今でも鮮明に頭の中に残っているとのことだった。


話は逸れたが、政邦死去後に、国際興業は匠の戸籍上は従兄にあたる”因縁の”小佐野隆正が社長の座を継ぐことになる。ただこの時点で匠と隆正の関係は決して悪くはなく、隆正は「自身には一人娘しかいないから」と、将来的に匠に経営を禅譲するということを度々明言していたようである。もっとも、当時の国際興業の最大株主は政邦の遺族だった為、隆正が社長でいる為には、その賛同は必須条件だった。その後の展開は以前の記事に書いた通り酷いものとなったのだが、、、


このように政邦が亡くなった時点で匠は小佐野一族内で自他共に認める「国際興業の次期社長」と目される立場になった。彼自身それを十二分に自覚していて、大学卒業後は国際興業のメインバンクであったUFJ銀行に就職して数年経験を積んだ後に国際興業に入社する予定が関係者の間で組まれており、本人もその道を受け入れ歩むつもりでいた。



.大学卒業~国際興業から追放されるまで


しかし慶應大学卒業を目前にした2003年頃から、小佐野家及び国際興業に思わぬ事態が訪れる。それは「不良債権処理」という国策の余波で起きた国際興業の経営危機である。20029月に竹中平蔵が金融担当大臣に就任すると、彼は10月には20059月までに不良債権を半減するように大手銀行に指示する。これを受け、みずほ銀行、三井住友銀行は資本を大幅に増強して早急な対策に乗り出したが、不良債権比率が高く抜本的な対策を打てなかったUFJ銀行は金融庁から追い詰められ経営危機に陥り、大口取引先からの資金の引き上げを始める。この影響はUFJ銀行をメインバンクとしていた国際興業にも当然及ぶ。急速な貸し付けの引き上げを求められた国際興業は経営危機に陥り、またUFJ銀行との関係が悪化する。


このような状態でのUFJ銀行への就職は困難であり、ある意味「人質」になってしまうことも回避する為、匠は急遽進路の変更を検討することになる。そこで海外留学なども検討していたが、たまたま友人の結婚式の二次会で早稲田大学のMBAの教授と隣に座って酒を飲み意気投合した縁で同校の入試を受けることにしたところ、無事合格し20044月に入学することになる。匠としては、入学後は主にマーケティングを学び国際興業入社後に生かそうと考えていたらしいが、2004年後半になるといよいよ危機を奇貨とした隆正の乗っ取り工作が本格化してくる。


もっとも匠としては、当時は隆正の陰謀など露も知らないわけで、隆正の「なんとかなるように頑張る」という嘘偽りを信じていたわけだが、2004年下期になるといよいよ雲行きが怪しくなってきたことから、ついに「就職活動」を開始して、匠をして国際興業の再建に最も必要なスキルを会得できると考えられ、そもそも終身雇用など全く前提としていない投資銀行のインターンや面接を回り始める。ただこのような状況になっても国際興業に関する思いは変わらず、どの会社の面接でも「貴社で誰よりも懸命に働いて絶対的スキルと人脈を獲得したうえで、いつか自らの手で国際興業の再建を成し遂げたい」ということを繰り返していたようだ。


しかしながら現実は残酷で彼の思いとは真逆の方向で進む。20041028日に匠の母の千砂が突然隆正呼び出され「政邦一族はサーベラスの支援の絶対条件として国際興業から追放されることになる」と通告されてしまう。当然政邦一族をあげてこの方針に反発したわけだが、(実際には存在もしなかった)政邦の1317億円にも及ぶ国際興業の債務に対する銀行の保証履行可能性等を切り札とする陰謀を見抜けずはめられる形で、2004年末には政邦一族は隆正の通告を受け入れ、一切の対価もなく、本来は莫大な潜在的価値を有していた国際興業株式を全て失い、実質は全て隆正に奪い取られた。


この時匠は「いつの日か必ずサーベラスや隆正から国際興業を取り戻し、自らの手で再建させる」という決意をしたそうだ。この辺り、あまり適切な例ではないかもしれないが、愛新覚羅溥儀を思わせるものがある。こうして”当面の”国際興業入社への道を断たれた匠は就職活動を本格化するわけだが、そのような中、匠の志望動機に興味を持って接したのがM&A助言・仲介大手のレコフで、結局2005年春に同社の内定を得る。


匠としては国際興業入社できなかった無念さはあったものの、決められたレールを外れて自分の人生を自分で決めて切り開くことになり、慶應幼稚舎入学以来の達成感を味わったとのことだった。



.レコフ入社~出世~宇佐美との出会いなど


こうして早稲田大学大学院でMBAを取得・修了した20064月に匠はレコフに入社する。レコフで彼がやっていた仕事は端的に言うと「M&A案件を発生させて、その案件を買い手または売り手のアドバイザーなり仲介なりの立場で成約させて、その手数料を取る」というものなのだが、不動産と違って会社の売り買いというのは表に出ている情報ではなく、またその手続きも個別事情が大きく標準化することが難しいので、確かな専門知識と人の懐に飛び込む人間力が求められる世界である。


言うなれば「経験」と「知識」の両方が必要なので、通常投資銀行は新卒社員に対しては計画的に、まずは上司から案件が「降ってくる」エグゼキューション業務を中心に経験させて知識と実務能力を涵養させていく、というステップを踏ませるものなのだが、そうした業界慣行に反して匠は最初から案件開発のチームに配属となり、「自分で案件を作り出せ、取ってこい」というOJTで育てられることになった。その結果匠の初年度の売上は1年間でマーケティングフィー50万円という散々なものだった。当時のレコフには、上司が案件を「振り分けてあげる」ような文化は存在しておらず、とにかく自分でゼロから作り上げることが求められ、社内では連日上司から厳しく叱責されストレスで胃を痛くする日々で、匠としては「なんとかここで結果を残さなければ」と忸怩たる思いでいた。


そんなある日「東進衛星予備校のナガセが四谷大塚を買収する」というニュースを見て、匠はピンときた。「これから少子化が進む中、教育サービス業界は再編が必須となるのではないか?」と仮説を立て、他方でそこに着目している人がまだ少なく競合しにくいと予想できたことから、匠は教育業界のM&Aに活路を探り動き始める。


手始めにいくつかの教育関連会社にヒアリングをしてみたところ案の定旺盛なM&A意欲があることが判明した。「買い手はいる。競合はまだいなそうだ。これはいける。」と確信した匠はM&Aの対象となりそうな会社のリストを作り、片っ端からアプローチしていくことにした。結果としてはこのアプローチが成功して、匠は2年目の終わりに1件の案件をようやく成立させる。そして3年目には複数のM&A案件を成約させ社内でもトップクラスの売上を計上することになり、その後も毎年安定して億円単位の手数料収入を得るトップバンカーへと成長した。


その実績は会社にも評価され2010年には28歳にして最速で部長職であるヴァイスプレジデントまで昇進する。このようにレコフにおける匠の立身は「親の七光り」に頼ったものではなく、国際興業を追い出されたゼロの状況から自分自身の才覚でチャンスを見いだし、努力を積み上げて勝ち取ったものであった。この点コネと陰謀だけで現在の地位を勝ち取った隆正とは対照的である。


なお私と匠が知り合ったのはこの頃で2010年、年齢で言えば28歳のころのことだった。当時の私は友人とシェアハウスをしていたのだが、その同居人の一人に「ちょっと宇佐美に紹介したい奴がいるんだよ。小佐野っていうんだけど、きっと会えば面白い化学反応が起きると思うんだよ」と言われて渋谷のギリシア料理屋「エーゲ海」で一緒に酒を飲んだのが始まりだった。当時の初対面の印象は「なんか変な奴っぽいな~」というものだったが、今の印象は「こいつ本当に変な奴だった」といったところである。一応褒めているつもりである。


当時から酒に酔うと国際興業に入社できなかった不本意を匂わせながら「いつか自分は必ず国際興業に戻ってあの会社を立て直すんだ」というようなことを言っていたのだが、本当にそれに挑むとは思わなかった。当時の匠は経済的にも成功し、仲間からも一目置かれ、女性にもモテていて、ありていに言えば妬みの対象だったので、その地位を捨てるとは思えなかったのだが、非合理な選択ほど人間性を表わすものなのだろう。



.隆正との対決~サーベラスとの共闘~国際興業への復帰


さて匠が隆正に対して数百億円規模の訴訟を起こしていることはこのブログでも再三ご紹介したきたところだが、闘争の前哨戦はかなり前から始まっていた。きっかけは2008年のことで小佐野家の親族の葬儀で匠が隆正と2人きりになる機会があり、その際匠は隆正に対して「状況が落ち着いたし4年ぶりに一度2人で話し合いの場を持ちたい」と話しかけたところ、隆正は「今は忙しいから秘書に連絡してくれ」とだけ言い、小走りに逃げて行った。


仕方がないので匠は後日隆正に対して手紙を送り「一族協力しての早期のサーベラス退出の実現したい」という旨を伝えようとしたのだが、書留で隆正宅に送ったところ明らかに嘘の受取人不在でそのまま手元に戻ってきてしまった。重ねて今度は会社住所宛に手紙を送ったところ、受取拒否こそされなかったものの返事が来ることはなかった。当時、レコフでキャリアを築き始めていた匠は、隆正に近く一方で匠も昔から知る社内の人物から「社長をサーベラスから助けてやってほしい」などの連絡も受けていた背景もあって、それを不思議かつ残念に思った。しかし「当の隆正がそのような話し合いすら全く拒否する態度でいるのであれば別の道を切り開くしかない」と考え、レコフの先輩数名が移籍していたサーベラス側へのアプローチを漠然と考え始めた。


そのような最中、2009年に国際興業の代表取締役である隆正がサーベラスから派遣された役員に対して数百億円の損害賠償を求めるという史上稀に見る珍奇な株主代表訴訟を起こした。必然的にその資料は公開されたため匠も見るところとなって、そこで匠は2004年以来隆正が行った数々の欺罔・不法行為を目にして、自分が薄々感じていた違和感の正体を知り、また驚愕した。この時匠は国際興業の為にも、隆正と全面的に対峙せざるを得ないことを悟った。


それでも当初はなるべく穏便にことをすませようと、当時サーベラスによって社長の座から下ろされそうにもなっていた隆正に対して和解案を複数かなり具体的に提示したが、結局隆正は一切の話し合いの門戸を閉ざし続けた。そこで隆正との交渉に見切りをつけ、特に2013年春以降はサーベラス側へのアプローチを本格化することとした。すると隆正の取扱いに困っていたサーベラスと匠は思惑が一致し話はトントン拍子に進み、当時社長の隆正側から「敵として徹底的に攻撃する」との脅しを受け、実際に入社直前には隆正の実質コントロール下にある労働組合の機関紙を通じて激しく攻撃され、入社早々には組合三役に大声で嫌がらせの演説を目の前でされるなどしたなか、サーベラス側からの推薦で無理矢理匠は経営企画担当部長として国際興業に入社することになった。


こうして歪な形ではあるが匠は本来立つべきであったスタート地点にようやくにして立つことになった。 



6.国際興業入社後と匠のビジョン


このように決死の覚悟で国際興業に入社した匠だが、2014年にサーベラスが国際興業から退出して隆正に実権が戻ると、あえなく子会社である国際興業エンタープライズの閑職に出向という形で追放されてしまう。普通ならばそこで諦めてしまうところだが、匠はあえて国際興業グループ内に残り、政邦一族をまとめあげて隆正相手に数百億円規模の損害賠償裁判を開始した。以来2年以上もその裁判は継続しているが、いよいよ終わりが見えてきたというのが現在の状況だ。恐らく、隆正本人や匠本人の尋問なども、そう遠くない将来に大勢の傍聴人の前で行われ、終結へと進んでいくだろう。


このように長きにわたる隆正との対決に終わりが見えてきたこともあり、訴訟終結後に取り組む国際興業の改革像も徐々に匠の中で形作られてきている。大きく特徴づけると以下の3点だ。


【①株式上場】

国際興業を上場させ、買収通貨の選択肢を現金以外にも持つようにし、もともとの自ら培ってきた経験を生かして積極的なM&Aを実施し、時価総額2,000億円を早期に実現(回復)する。


【②従業員持株会の発足】

①によって生じる企業価値の上昇を小佐野一族のみで享受するのではなく、従業員持株会を作って働く人々やOBも企業価値向上の果実を給与以外からも享受できるようにし、会社と従業員の絆を取り戻す。


【③小佐野家の持分比率の引き下げ】

小佐野家の持分比率を段階的に自然と3分の1強程度まで下げていき、株式市場からの監視を絶えず受け続けるとともに、たとえ小佐野家の人間であろうと、2度と隆正のような従業員に対する裏切りを厭わず単に私利私欲の追求だけをするようなだけの人物がトップに立つことのない体制を築く。


またこの点については別の機会に詳細を述べることにしたい。


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とまぁ、いろいろ書いてきましたが、つまるところ「小佐野匠が何をしたいか」というと、私から見るとそれは本当に単純なことで「憧れていた小佐野家の親父たちの後を継ぎたい」というそれ以上でもそれ以下でもないように思えます。「数百億円の訴訟」なり、「小佐野家の因縁」なり、「サーベラス側から入社してきた」といった雑音が匠のイメージを混乱させていますが、彼のやりたいことというのは、親の背中に憧れて、蕎麦屋の息子が蕎麦屋を目指し、大工の息子が大工を目指し、学者の息子が学者を目指す、というよくある話がものすごい大きくなっただけの話に過ぎないのじゃないかと思っています。私見になりますが、上記改革案からも分かる通り、匠は変な野望や金銭欲を持って、社内で不気味にくすぶっているのではないということをできればぜひ理解いただきたいと思います。


おそらく現在進んでいる訴訟の結末は、訴訟記録を見ても隆正の主張があまりにもメチャクチャで二転三転しており、どういう形にしろ匠に対して有利なものとなるでしょう。その時、早ければ1年以内でしょうが、隆正の選択する「終わらせ方」によっては、グループ各社の従業員の皆様は「隆正か匠か、どちらについていくか」という選択を迫られることになるかもしれません。国際興業とは何も関係ない私がこんなお願いをするのは僭越ですが、その時は変に先入観を覚えることなく、純粋に匠の経歴・実績・ビジョンを見て、聞いて、小佐野匠に本当に国際興業の経営者としての資質があるか評価してやってほしく、この記事がその材料の一つになれば幸いと思っています。


ではでは今回はこの辺で。