久しぶりのブログ更新。
五月祭が話題になっているので、この際少しばかり自分自身の思い出を書き残しておこうと思う。
(なお文中に出てくる名前は仮名である)
2001年5月祭の夜、それはまさに狂乱の夜だった。
といっても今冷静に振り返れば、よくある青春の一風景に過ぎないのだが、少なくとも当時の私にとっては最高に狂乱だった。
我々文一二19組の面々は2001年4月に入学したばかりで、五月祭は初の大学イベントであった。
文一二、というのは文科一類と文科二類のことをさしていて、普通の大学で言うところの法学部と経済学部の予備軍のことで、東大では1、2年の語学クラスはこの二つの分類の混合で構成される。
入学したばかりの大学生にできることなど屋台くらいしかなく、クラスの親睦を深めようということで我がクラスはクレープ屋をやることになった。そんなことはまぁ本題に何も関係ない。私自身も昼のことはほぼ記憶になく、とにかく桜蔭出の小園さんが万事卒なくこなしてくれて、任せっきりだった。ありがとう小園さん。
大半の入学したばかりの学生にとって、五月祭の本番、それは東大本郷校舎に泊まり込む夜である。
そこでは学生時代受験勉強に押さえ込まれていた、優等生たちの若者の本能が酒の力と共に解放される。特に地方から出てきた上京組の暴れっぷりは凄まじかった。
まず壊れたのは益子だった。
益子は兵庫の甲陽学院出身の絵に描いたような陽気な関西人で、入学早々に童貞を捨てることを固く誓っていた。そして彼は同じクラスの古森さんに早速恋をした。古森は金沢大学付属高校出身のお嬢さんだったが、親しみやすく、また話すときに癖でやたら腕を叩いてくるので入学早々、益子はじめ幾人かの女慣れしていない男たちの心を狂わせた。
益子は5月祭の夜に酒の力を借りて古森に渾身の力でアタックしたが、手遅れであった。古森はその数時間前にすでに霜田付き合い始めていた。霜田は開成サッカー部出身の文武両道のスマートかつ爽やかなイケメンで、いつのまにか古森を連れ出して夜にはすっかりよろしい関係になっていた。
無惨にも恋に玉砕した益子はヤケクソで狂ったように飲み始めた。そして狂った。狂って全裸になってガムテープを全身に巻き始めて、走り出した。それはまさに青春を体現するかのような激しく美しい疾走であったが、泥酔した上に走り回ったので当然の如く酔いが回って倒れた。益子は三四郎池の前を全裸で美しく疾走して、そして吐いた。
どこに吐いたかというと、五味のカバンの中だった。それを見た五味は「ふざけんな、それオレの買ったばっかのカバンやんけ。やめろ」と益子の頭を叩いたが、益子は五味のカバンの中で吐き続けた。五味は全国模試の上位常連で、入学当初はみなからなんとなく「キレモノ」と畏怖されていたのだが、この日を境に五味と言えば「ゲ◯カバン」というイメージになり親しみやすくなった。
益子はそのまま数日行方不明になった。
私は全裸で本郷を疾走する益子の姿に刺激を受けて、我も続かんと半裸になり、隣のテントに乱入することにした。そのテントは理一のクラスものであったのだが、こちらがテンションマックスで「一緒に飲もうぜ」とばかりに半裸で突入したのに対して、そこには男6、7人が鍋を囲んでだべり合う男子校さながらの光景が展開されていた。
鍋奉行をしていた佐藤は半裸の私を見て苦笑いしつつ「いや〜、文系は女がいて盛り上がっていいね〜。俺たちのテントなんで、そんな風になりようがないぜ」といたって冷静に私を迎えた。当時文一二の女性比率は10~15%程度だったが、理一の女性比率は3%程度で、クラス50人いれば文一二は5~8人程度女性がいたが、理一は1人いるかいないかというレベルだった。
私は「こりゃ場違いだった」と冷静になって服を着て、自分のテントに帰ろうとしたが、佐藤は「ま〜鍋でも一緒に食おうぜ」と意外にも暖かく迎えてくれた。そのまま朝まで理一のテントで楽しく一緒に酒を飲んで佐藤とはすっかり意気投合した。その後、佐藤とは大学生活を通じて4年間麻雀を一緒に打ち続けることになる。
そのあたりで私の記憶は途切れ、気づいたら家の布団の上で二日酔いでのたうち回っていたのだが、この五月祭の狂乱は多少なりとも私の運命を変えることになった。
古森は2年後「どうせあんたなんも考えてないんだろうから、国家公務員試験受けてみなよ」と予備校に誘ってくれた。それがきっかけで私は経産省に入省することになる。
益子とは10年後、一緒に住むことになる。当時国家公務員の枠の中で窮屈になって窒息しそうになっていた私をみて「お前そんなつまんないやつじゃなかっただろ。一緒に遊ぼうぜ。」とシェアハウスに誘ってくれた。益子は当時外資系コンサルティング会社をやめたばかりだったのだが、そこでの同僚の林原とシェアハウスを計画していた。28歳から30歳の3年間、私は益子と林原と一軒家を借りて夜な夜なパーティーを開き遊び尽くして、さまざまな人に触れて「もっと広い世界で一度生きてみよう」と官僚を辞めることを決意することになる。
佐藤とはのちに一緒に仕事することになる。経産省で電機分野の国家研究開発pjの立案を担当していた私は、新たなプロジェクトの種を探して東大の研究室を回っていた。そこで「おー宇佐美、なにやってんだ」と声かけてきたのが佐藤だった。そこで佐藤と一緒に企画したプロジェクトが私の経産省での最後の仕事となった。
五月祭っていうのは私にとってそういう場所だった。
五月祭が話題になっているので、この際少しばかり自分自身の思い出を書き残しておこうと思う。
(なお文中に出てくる名前は仮名である)
2001年5月祭の夜、それはまさに狂乱の夜だった。
といっても今冷静に振り返れば、よくある青春の一風景に過ぎないのだが、少なくとも当時の私にとっては最高に狂乱だった。
我々文一二19組の面々は2001年4月に入学したばかりで、五月祭は初の大学イベントであった。
文一二、というのは文科一類と文科二類のことをさしていて、普通の大学で言うところの法学部と経済学部の予備軍のことで、東大では1、2年の語学クラスはこの二つの分類の混合で構成される。
入学したばかりの大学生にできることなど屋台くらいしかなく、クラスの親睦を深めようということで我がクラスはクレープ屋をやることになった。そんなことはまぁ本題に何も関係ない。私自身も昼のことはほぼ記憶になく、とにかく桜蔭出の小園さんが万事卒なくこなしてくれて、任せっきりだった。ありがとう小園さん。
大半の入学したばかりの学生にとって、五月祭の本番、それは東大本郷校舎に泊まり込む夜である。
そこでは学生時代受験勉強に押さえ込まれていた、優等生たちの若者の本能が酒の力と共に解放される。特に地方から出てきた上京組の暴れっぷりは凄まじかった。
まず壊れたのは益子だった。
益子は兵庫の甲陽学院出身の絵に描いたような陽気な関西人で、入学早々に童貞を捨てることを固く誓っていた。そして彼は同じクラスの古森さんに早速恋をした。古森は金沢大学付属高校出身のお嬢さんだったが、親しみやすく、また話すときに癖でやたら腕を叩いてくるので入学早々、益子はじめ幾人かの女慣れしていない男たちの心を狂わせた。
益子は5月祭の夜に酒の力を借りて古森に渾身の力でアタックしたが、手遅れであった。古森はその数時間前にすでに霜田付き合い始めていた。霜田は開成サッカー部出身の文武両道のスマートかつ爽やかなイケメンで、いつのまにか古森を連れ出して夜にはすっかりよろしい関係になっていた。
無惨にも恋に玉砕した益子はヤケクソで狂ったように飲み始めた。そして狂った。狂って全裸になってガムテープを全身に巻き始めて、走り出した。それはまさに青春を体現するかのような激しく美しい疾走であったが、泥酔した上に走り回ったので当然の如く酔いが回って倒れた。益子は三四郎池の前を全裸で美しく疾走して、そして吐いた。
どこに吐いたかというと、五味のカバンの中だった。それを見た五味は「ふざけんな、それオレの買ったばっかのカバンやんけ。やめろ」と益子の頭を叩いたが、益子は五味のカバンの中で吐き続けた。五味は全国模試の上位常連で、入学当初はみなからなんとなく「キレモノ」と畏怖されていたのだが、この日を境に五味と言えば「ゲ◯カバン」というイメージになり親しみやすくなった。
益子はそのまま数日行方不明になった。
私は全裸で本郷を疾走する益子の姿に刺激を受けて、我も続かんと半裸になり、隣のテントに乱入することにした。そのテントは理一のクラスものであったのだが、こちらがテンションマックスで「一緒に飲もうぜ」とばかりに半裸で突入したのに対して、そこには男6、7人が鍋を囲んでだべり合う男子校さながらの光景が展開されていた。
鍋奉行をしていた佐藤は半裸の私を見て苦笑いしつつ「いや〜、文系は女がいて盛り上がっていいね〜。俺たちのテントなんで、そんな風になりようがないぜ」といたって冷静に私を迎えた。当時文一二の女性比率は10~15%程度だったが、理一の女性比率は3%程度で、クラス50人いれば文一二は5~8人程度女性がいたが、理一は1人いるかいないかというレベルだった。
私は「こりゃ場違いだった」と冷静になって服を着て、自分のテントに帰ろうとしたが、佐藤は「ま〜鍋でも一緒に食おうぜ」と意外にも暖かく迎えてくれた。そのまま朝まで理一のテントで楽しく一緒に酒を飲んで佐藤とはすっかり意気投合した。その後、佐藤とは大学生活を通じて4年間麻雀を一緒に打ち続けることになる。
そのあたりで私の記憶は途切れ、気づいたら家の布団の上で二日酔いでのたうち回っていたのだが、この五月祭の狂乱は多少なりとも私の運命を変えることになった。
古森は2年後「どうせあんたなんも考えてないんだろうから、国家公務員試験受けてみなよ」と予備校に誘ってくれた。それがきっかけで私は経産省に入省することになる。
益子とは10年後、一緒に住むことになる。当時国家公務員の枠の中で窮屈になって窒息しそうになっていた私をみて「お前そんなつまんないやつじゃなかっただろ。一緒に遊ぼうぜ。」とシェアハウスに誘ってくれた。益子は当時外資系コンサルティング会社をやめたばかりだったのだが、そこでの同僚の林原とシェアハウスを計画していた。28歳から30歳の3年間、私は益子と林原と一軒家を借りて夜な夜なパーティーを開き遊び尽くして、さまざまな人に触れて「もっと広い世界で一度生きてみよう」と官僚を辞めることを決意することになる。
佐藤とはのちに一緒に仕事することになる。経産省で電機分野の国家研究開発pjの立案を担当していた私は、新たなプロジェクトの種を探して東大の研究室を回っていた。そこで「おー宇佐美、なにやってんだ」と声かけてきたのが佐藤だった。そこで佐藤と一緒に企画したプロジェクトが私の経産省での最後の仕事となった。
五月祭っていうのは私にとってそういう場所だった。

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